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ホテル・エベレスト・ビューのはじまり

エベレスト・・・それは私にとって、むかしから遠い遠い夢の山であった。
幾多の探検と登山の歴史を秘めて、雲の上にそびえている高い高い山であった。
なにか遠い世界のことのように思っていたがその山が、いま目前にあった。
(宮原巍著:ヒマラヤの灯より)

1968年のことです。日本では東大紛争などをはじめ学生運動が巨いなる力として展開されていた時、宮原巍は一人ネパールに向かい、シャンボチェの丘に立ちます。そして、エベレストと初めて対面しました。
この3行にはその時の心を大きく揺さぶられる体験が凝縮されています。

「この世界を一人でも多くの人々に見てもらいたい。
 そしてネパールを観光で豊かにしたい。」


その一心が宮原を突き動かし、ホテル建設計画が生み出されました。
その後、ネパールの観光局と折衝、当初は計画自体に難色を示されたものの宮原の情熱がネパール政府を動かし、また日本にいた数多くの友人の力添えにも後押しされ、わずか1年でカトマンズに会社を設立、1971年にはシャンボチェ飛行場が完成。
飛行場をベースに本格的にホテル建設がスタートしました。折しも宮原がエベレストに対面した翌年、ネパール王国はヒマラヤ登山を解禁とし、1970年代より観光立国を目指していきます。
ヒマラヤ観光開発(株)はこの時の精神に則り、観光によってネパール国と国民を豊かにしていこうという願いのもと、様々な旅行を企画・実施しています。 2013年現在、宮原はまだ現役の社長としてヒマラヤの国に熱い情熱をかたむけています。
シャンボチェ空港とタムセルク

シャンボチェ空港とタムセルク


ホテル・エベレスト・ビューができるまで

1968年 2月  エベレストに対面、ホテル建設を計画。 建設風景 客室

建設風景 客室

4月  ネパール政府にホテル計画書を上申。
9月  建設許可がおりる。
   トランス・ヒマラヤン・ツアー株式会社(現在の現地手配会社)設立。
10月  クムジュン、クンデ村の人々と会合。了解を得る。
12月  多くの人々の支援を受け、実際的計画立案、資金調達に奔走する。
1969年 5月  シャンボチェにて再度の現地調査を行う。
   エベレスト地域の「国立公園」化の意義などを政府に伝える。
10月  ヒマラヤ観光開発(株)設立。
 
1970年 1月  ホテル・エベレスト・ビュー建設に着工。 正面玄関

正面玄関

   (200人近い村人が建設にたずさわる)
5月  日本隊エベレスト登頂。
12月  寒さのため建設一旦中止。セメントが固まってしまう。
   しかし、7つの客室と屋根、外装、内装の一部が完成。
1971年 1月  三浦敬三氏(雄一郎氏の尊父)、北村静氏などが宿泊。
   ホテル最初の宿泊者を迎える。
2月  建設再開。強風で屋根が飛んでしまう。その10日後には大雪。
3月  航空局と飛行場計画のため折衝。
4月  最初のツアー(ジャルパック)が実施される。
   深田久弥氏も来られる予定であったが、急逝。 飯場の宮原

飯場の宮原

5月  シャンボチェ飛行場の建設許可が下りる。
8月  飛行場建設の起工式。タンボチェ僧院のラマが祈祷。
10月  ネパール産業開発銀行からの融資決定。
11月  カトマンズにてホテルの披露パーティーを行う。
11月10日  ホテル・エベレスト・ビュー営業開始。
 
1973年 6月  シャンボチェ飛行場のテスト飛行実施。
10月6日  カトマンズにてホテル・エベレスト・ビューとシャンボチェ飛行場の落成式。
   シャンボチェ飛行場、本格的に運用開始。

ホテル・エベレスト・ビューの概要

ホテルの名称: ホテル・エベレスト・ビュー(HOTEL EVEREST VIEW)
所在地: Syangboche,Nepal
総支配人: ソナム・シェルパ(日本語可)
副支配人: アン・ヌル・シェルパ(日本語可)
従業員数: 40名(レストラン係、ハウスキーパー、専属トレッキングガイドは日本語可)
開業日: 1971年11月10日
営業: 通年
規模: 平屋、延床面積4,500平方メートル
客室総数: 12部屋 ツイン11部屋、コネクティングルーム(5名様宿泊可能)1部屋 ※全室エベレスト・ビューサイド
収容人数: 27名
言語: ネパール語、英語、日本語
取扱い通貨: ネパールルピー、インドルピー、USドル、日本円
両替: 原則不可
クレジットカード: 取扱いあり(VISAのみ。ただし、カトマンズのカード会社への確認のために時間を要する場合があります。
  また使用できない場合もあります)
客室備品: 温風ヒーター(利用時間制限あり)、電話、魔法瓶、水洗トイレ、石鹸、
  タオル(バスタオル、ハンドタオル、フェイスタオル)、湯たんぽ、洗面湯サービス
設備、サービス: レセプション、レストラン、ラウンジ、サンルーム、テラス、インターネットルーム、シャワールーム(2部屋)、
  バー、ミニショップ、ウェルカムドリンク、電話(レセプションから国際電話可)、無線、モーニングコール、
  血中酸素濃度測定器(パルスオキシメーター)での体調管理、医療用酸素ボンベ(10本程度常備)、馬、
  ルームサービス、専属トレッキング・ガイド派遣、レスキューヘリコプター要請
アクセス: シャンボチェ飛行場より徒歩1時間、ナムチェより徒歩3時間
エベレスト・ビュー こぼれ話

ホテル建設は道楽?

「ヒマラヤの灯」には面白いエピソードがあります。
後年、ホテルに泊まられたお客様が横にいる宮原を経営者とは知らず、
「このホテルを建てた人はよっぽどお金持ちで、道楽者なのでしょう」と言ったとか。
宮原は著書のなかで「お金持ちという点を除けば、彼女たちのいっていることは当たっていた」と苦笑しています。
エベレスト・ビュー こぼれ話

ホテルという単語に
まつわるエピソード

会合に宮原はあたたかく迎え入れられたようですが、実は大きな誤解もあったようです。
というのも、ネパール語で「ホテル」は「お茶屋さん、軽食堂」を意味することもあり、街道から外れたシャンボチェで茶店をやってももうからないのじゃないか?茶店ごときにどうしてそんなに金を使うのか?という疑問だったとか。
今となっては、面白いエピソードです。
エベレスト・ビュー こぼれ話

祝い酒と二日酔い

1968年に着想されたホテル・エベレスト・ビューは、2年後の1970年1月14日より本格的に着工されます。
この日、宮原一行はヘリコプターをチャーターしてクムジュン村まで飛ぶのですが、寝床を貸してもらった家主から前祝のチャン(どぶろく)をふるまわれ、なんと全員一瞬で酔っ払ってしまったようです。
今思えば、高山病だったとのこと・・・。翌日はみんな腫れぼったい顔で工事を開始したそうです。
高所での飲酒はぜったいダメです!!
エベレスト・ビュー こぼれ話

ホテル建設に携わる人々

建設には日本からと付近の村人、そしてルクラより南にあるパープルの職人も加わり、最大時には約200名規模となりました。
労働は朝8時から夕方5時まで、休日は2週間に1度という急ピッチで進められました。
エベレスト・ビュー こぼれ話

日本隊のエベレスト登頂の
ニュース

1970年5月11日、松方三郎総隊長率いる日本山岳会はエベレスト登頂を果たします(松浦輝夫・植村直己らが成功)。
そのニュースはルクラにいた宮原に託され、カトマンズの駐在員に届けられました。
エベレスト・ビュー こぼれ話

セメントが凍った!

1970年1月の建設着工後、現場は士気が高く、ホテルはどんどん形作られていきます。
しかし、標高4,000m近いヒマラヤの麓では12月中旬にもなると表土が凍り、ついにはセメントも凍ってしまいます。
結局12月20日〜翌年の2月下旬まで工事は一旦中止となってしまい、一部のスタッフを残しみんな長い冬休みとなりました。
余談ながら、インドから来た技師4名は余りの寒さに耐えきれず、ある朝いなくなっていたようです。
いろいろと苦労が積み重なったホテル建設でした。
エベレスト・ビュー こぼれ話

最初のお客様

ホテル・エベレスト・ビューの最初のお客様は三浦雄一郎氏のご尊父の敬三氏をリーダーとする写真家の方々、そして蓼科山で山小屋を経営されている北沢勝氏と氏のご友人でした。
エベレスト・ビュー こぼれ話

1000万円のトランク

当時、ナムチェにも銀行が無くヘリコプターの運航もままならなかったため、工事資金の多くは宮原が自分の手で持参しました。
ある時は1000万円ちかい現金をジリから1週間かけて担いだそうです。
夜は鎖でつないで寝たこともあったようです。さすがに気になって寝不足になったとのこと。
エベレスト・ビュー こぼれ話

意外と文化的な飯場生活

「ヒマラヤの灯」によると、日本のエベレスト登山隊が不要になった装備を放出したため、ホテル・エベレスト・ビュー建設現場は「文化的」な生活ができたようです。
たとえば、個人用のテント、クッキング・ガス、電池やカセット・テープ、書籍など。
仕事の合間に読書をする宮原の写真が残っています。

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