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1968年のことです。日本では東大紛争などをはじめ学生運動が巨いなる力として展開されていた時、宮原巍は一人ネパールに向かい、シャンボチェの丘に立ちます。そして、エベレストと初めて対面しました。 この3行にはその時の心を大きく揺さぶられる体験が凝縮されています。 「この世界を一人でも多くの人々に見てもらいたい。
| ![]() シャンボチェ空港とタムセルク |

| 1968年 2月 | エベレストに対面、ホテル建設を計画。 | ![]() 建設風景 客室 |
|---|---|---|
| 4月 | ネパール政府にホテル計画書を上申。 | |
| 9月 | 建設許可がおりる。 | |
| トランス・ヒマラヤン・ツアー株式会社(現在の現地手配会社)設立。 | ||
| 10月 | クムジュン、クンデ村の人々と会合。了解を得る。 | |
| 12月 | 多くの人々の支援を受け、実際的計画立案、資金調達に奔走する。 | |
| 1969年 5月 | シャンボチェにて再度の現地調査を行う。 | |
| エベレスト地域の「国立公園」化の意義などを政府に伝える。 | ||
| 10月 | ヒマラヤ観光開発(株)設立。 | |
| 1970年 1月 | ホテル・エベレスト・ビュー建設に着工。 | ![]() 正面玄関 |
| (200人近い村人が建設にたずさわる) | ||
| 5月 | 日本隊エベレスト登頂。 | |
| 12月 | 寒さのため建設一旦中止。セメントが固まってしまう。 | |
| しかし、7つの客室と屋根、外装、内装の一部が完成。 | ||
| 1971年 1月 | 三浦敬三氏(雄一郎氏の尊父)、北村静氏などが宿泊。 | |
| ホテル最初の宿泊者を迎える。 | ||
| 2月 | 建設再開。強風で屋根が飛んでしまう。その10日後には大雪。 | |
| 3月 | 航空局と飛行場計画のため折衝。 | |
| 4月 | 最初のツアー(ジャルパック)が実施される。 | |
| 深田久弥氏も来られる予定であったが、急逝。 | ![]() |
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| 5月 | シャンボチェ飛行場の建設許可が下りる。 | |
| 8月 | 飛行場建設の起工式。タンボチェ僧院のラマが祈祷。 | |
| 10月 | ネパール産業開発銀行からの融資決定。 | |
| 11月 | カトマンズにてホテルの披露パーティーを行う。 | |
| 11月10日 | ホテル・エベレスト・ビュー営業開始。 | |
| 1973年 6月 | シャンボチェ飛行場のテスト飛行実施。 | |
| 10月6日 | カトマンズにてホテル・エベレスト・ビューとシャンボチェ飛行場の落成式。 | |
| シャンボチェ飛行場、本格的に運用開始。 |

| ホテルの名称: | ホテル・エベレスト・ビュー(HOTEL EVEREST VIEW) |
|---|---|
| 所在地: | Syangboche,Nepal |
| 総支配人: | ソナム・シェルパ(日本語可) |
| 副支配人: | アン・ヌル・シェルパ(日本語可) |
| 従業員数: | 40名(レストラン係、ハウスキーパー、専属トレッキングガイドは日本語可) |
| 開業日: | 1971年11月10日 |
| 営業: | 通年 |
| 規模: | 平屋、延床面積4,500平方メートル |
| 客室総数: | 12部屋 ツイン11部屋、コネクティングルーム(5名様宿泊可能)1部屋 ※全室エベレスト・ビューサイド |
| 収容人数: | 27名 |
| 言語: | ネパール語、英語、日本語 |
| 取扱い通貨: | ネパールルピー、インドルピー、USドル、日本円 |
| 両替: | 原則不可 |
| クレジットカード: | 取扱いあり(VISAのみ。ただし、カトマンズのカード会社への確認のために時間を要する場合があります。 |
| また使用できない場合もあります) | |
| 客室備品: | 温風ヒーター(利用時間制限あり)、電話、魔法瓶、水洗トイレ、石鹸、 |
| タオル(バスタオル、ハンドタオル、フェイスタオル)、湯たんぽ、洗面湯サービス | |
| 設備、サービス: | レセプション、レストラン、ラウンジ、サンルーム、テラス、インターネットルーム、シャワールーム(2部屋)、 |
| バー、ミニショップ、ウェルカムドリンク、電話(レセプションから国際電話可)、無線、モーニングコール、 | |
| 血中酸素濃度測定器(パルスオキシメーター)での体調管理、医療用酸素ボンベ(10本程度常備)、馬、 | |
| ルームサービス、専属トレッキング・ガイド派遣、レスキューヘリコプター要請 | |
| アクセス: | シャンボチェ飛行場より徒歩1時間、ナムチェより徒歩3時間 |









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